私たちが暮らす虎姫地区は、姉川、田川、高時川という清流に抱かれ、古代より農業が盛んな美しい郷として繁栄してきました。町中をめぐる水路には錦鯉がゆったりと泳ぎ、その澄んだ水とともに日々の生活に潤いを与えてくれています。
しかし豊富な水源である河川も、かつては頻繁に氾濫し人々を悩ませていたため、人々は知恵を出し合い試行錯誤を繰り返しながら、治水対策として川と川との立体交差である「田川カルバート」を明治18年に完成させました。先人たちの数多くの苦労と知恵が、今も私たちの暮らしを守ってくれているのです。
このように豊かな川の流れに育まれた虎姫の地は、古くから多くの人たちが暮らす肥沃な穀倉地帯として周辺地域との交流も盛んに行われたため、伊部街道、八丁街道、十里街道、山西街道などが整備され、虎姫の地は湖北地方の文化と経済の中心地として発展してきたのです。
その昔、ある山の泉のほとりに“虎御前”という美しい姫が住んでいました。虎御前には結婚の申し込みが後を絶ちませんでしたが、一人静かに暮らしていました。
ある時、虎御前は出先で道に迷い、世々開(せせらぎ)という長者に助けられたことが縁で、二人はほどなく結婚をしました。
やがて虎御前は身ごもりますが、産まれてきたのは顔以外がウロコに覆われた15匹の小さな蛇でした。あまりのことに虎御前は嘆き悲しみ、そして女性ヶ淵(みせがふち)に映る自分の姿が蛇であることに気づくと、淵に身を投げてしまったのです。
世々開はたいそう悲しみましたが、立派に15人の子供たちを育てあげ、子どもたちも、成人する頃には人間とまったく変わらない容姿となりました。世々開は子供たちに15の土地を分け与えそれぞれを治めさせたため、虎姫は15の村から出来ていたといわれています。
物語に登場する山は、いつの頃からか虎姫御前山と呼ばれるようになり、明治22年に町村制が実施されたとき、虎姫御前を偲んでこの地は“虎姫”と名づけられたのです。
「比叡山中興の祖」と仰がれる元三大師は、延喜12年(912)に虎姫の地に生まれ、その誕生地に建立されたと伝わる玉泉寺には、今も産湯の井戸が残されています。
大師は、12歳の時に比叡山にのぼり、17歳で出家。康保3年(966)には第18代天台座主に就任し、荒れ果てた延暦寺堂塔の再建に努めるほか、天台数学の振興や諸制度を改革するなど、比叡山を学問的にも教団的にも発展させたため「比叡山中興の祖」と仰がれています。永観3年(985)の正月三日に亡くなったことから「元三大師」との名で親しまれ、没後には朝廷から「慈恵」の諡(おくりな)を賜りました。
また、「おみくじの元祖」としても知られ、現在でも日本各地の寺社で「元三大師みくじ」をひくことができます。
「元三大師」生誕地に建立された天台宗の名刹。境内には元三大師産湯の井戸があり、秘仏である本尊の「木造慈恵観音坐像」(重要文化財)は、大師自作といわれています。
古墳時代初期に築造されたといわれる古い時代の古墳。多数の土器片とともに「唐草文縁細線式獣帯鏡」(からくさもんぶちさいせんしきじゅうたいきょう)と呼ばれる銅鏡が出土し、この地に有力な権力者がいたと考えられています。
虎姫の地で最も古い仏像は平安時代末期の作といわれ、大井の観音堂に安置されています。立像が多い観音像の中では珍しい坐像として注目を集めています。
「御坊さん」として親しまれる五村別院は、名匠・西嶋但馬家が手がけた代表的な建築物として国の重要文化財に指定されています。
常善寺は、五村別院の旧本堂を享保年間に譲り受け、移築されました。常善寺には、五村別院から宛てられた五十両の領収書が残されています。
建立は天保10年(1839)、湖北地方の名匠・西嶋繁右衛門作。玉泉寺の屋根の形を模してつくられたと考えられています。
五村の日前(ひさき)神社に伝わる曳山の舞台では、子ども歌舞伎や狂言が行われています。
虎姫町は田川、姉川、高時川に挟まれ洪水などの被害を受けていましたが、田川カルバートが苦労と努力の結果明治18年に完成し、幾度か改修して現在の新カルバートになりました。